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 もっと詳しい履歴書

​~第一章~ 漫画、演劇、タレント、キャバレー

 

 

 

※雑誌のインタビュー等を受けるたび、自分がいつ頃なにをしてきたかが正確に思い出せないことが多かったため、このページを立ち上げました。自分のプライベートな日記帳を参照しながら、まとめています。インタビュー記事を起こすライターさんなどに、重宝されています。

 

1962 年5月12 日

 

福岡県北九州市八幡東区に生まれる。明治大学文学部を卒業後、家業のペットショップを継いだ父親は、

谷崎潤一郎に傾倒、小説「痴人の愛」の主人公の名からわが子を「ナオミ」と命名。

 
時代背景 / 無責任時代  ツイスト流行


1966年(4歳)  絵がじょうずで、おしゃれでおませな子供と言われる。

新3種の神器 カラーテレビ、カー、クーラー  物価戦争 早大紛争 アイビールック


1969年(7歳) 祝町小学校入学。独りで珈琲を飲みに、喫茶店に行くような子供だった。宇野亜喜良氏の描く絵が好きで

絵本や詩集を収集。ガラス瓶が好きで、近所を回り化粧品の瓶を集めていた。喫茶店のマッチ棒を収集。
     

三島由紀夫割腹自殺 3億円事件 ヒッピー族  大学紛争

1974年(12歳) 天然パーマの髪を腰まで伸ばしていた。自分のラジカセを買ってもらい、機体にスパンコールをびっしり貼って装飾し、テレビの歌番組を録音して聴いたり、ラジオの深夜放送を聴くのが楽しみだった。

エクソシスト がきデカ キカイダー 8時ダヨ!全員集合

1975年(13歳) 槻田中学校入学。母親から唐十郎さん「紅テント」筑豊ボタ山公演に連れて行ってもらう。

私の目当ては、ゲストで来ていた赤塚不二夫さん。公演は人があふれ入りきれず、地元の客が集団で主催者に罵声を浴びせ、暴動が起こりそうな雰囲気になってきたため、主催者があわてて深夜より追加公演を、急きょ決定。万歳の声とともに、「守銭奴」という野次が飛び交い、刺激的な光景だった。

 

雨嵐の中、大勢の客と一緒に、台風で飛びそうなテントの鉄柱を支えながらの観劇。芝居は、深夜2時までに及ぶ。
人生が変わるほどの衝撃を受ける。翌日、母親が学校に電話。仮病で休ませてくれる。


ロッキード事件 紅茶きのこ 日本沈没 ノストラダムスの大予言 

 

 

1979(17歳) 東筑紫短大付属高校。夏休みは父親の働く 黒崎のデパート「井筒屋」のペットショップで、店番。

卒業後は店員になろうと思っていたが、社員食堂にならぶ魚の煮つけを取ろうとしたとき、ひとつ奥の皿の煮つけが

おいしそうに見え、手を伸ばした瞬間、食堂のオバチャンに、手前の皿から取れと、この世の終わりのように怒鳴られる。
ひとつ後ろの皿すら選べない世界と、折り合いをつける自信がなく、店員は断念。

漫画が好きで、漫画家になりたいと思い、「少女フレンド」の賞に応募するが、自信があったのに落選。挫折を味わう。


                           
口裂け女 不確実性の時代 なんちゃっておじさん キャンディーズ解散


1980(18歳)漫画を描きつづける。あるとき少年ジャンプに掲載されていた「移動まんが教室」の記事に興味を持つ。「少年ジャンプ」の人気漫画家を筆頭に、編集部が博多にやって来て、アマチュア漫画家の原稿にアドバイスしてくれる

という魅力的な企画だった。

 

さっそく、作品を持ち込む。審査をした中野和雄 副編集長に「天才的なものを感じる」と言われ、名刺をもらい、
スカウトされる。いきなり担当編集者がつく。

( このときゲストとして、のちに師匠となる小林よしのり氏が来ていた事にも、深い縁を感じる )

インベーダーゲーム


1981(19歳) 高校を卒業したが、就職せず、漫画家になりたいと両親に言い、毎日部屋にこもって描き続けた。
東京の編集部から担当である伊東健介氏が電話をしてきて、緊張しながら原稿の進行を話す毎日。
「ミスターヒップリン」が、第15回赤塚賞最終候補作に。「どうなってれびじょん?」がフレッシュジャンプ賞候補に選ばれるが、受賞は逃す。

 

あるとき連載中の漫画家が原稿を落とし、私に掲載のチャンスがめぐってくる。しかしいいものが書けず、掲載予定だった作品がボツになり、松本泉さんという (のちに大御所に) 新人の作品が掲載される。
またまた挫折を味わい、描けなくなる。精神的葛藤のおおきかった時期。


ザ・ベストテン マンザイブーム ぶりっ子
                                

1982(20歳)  実力を付けたいと思い、「北九州デザイナー学院グラフィックデザイン科」へ入学。
先輩の画家夫妻のつてで、家賃2万円の住居兼アトリエを借りる。ヤクザの事務所と向かい合わせのつぶれた旅館。

数人の画家が住んでおり、トキワ荘のような愉快な生活。

生活費捻出の為、フリーで絵画の裸婦モデルを始める。知人のつてでスポーツ新聞の投稿欄の代筆の仕事を始める。

なめねこ E.T. ルービックキューブ

 

1983年 (21歳) スポーツニッポン九州版で、女の子が歓楽街を見学するという連載を始め、人気を博す。


戸塚ヨットスクール 積み木くづし ソ連機が大韓航空機を爆破 おしん


1984(22歳)北九州デザイナー学院卒業。スポニチの連載が人気で企画もだんだん過激になってくる。

風営法により、裸や猥褻な文字が塗りつぶされた、街のポルノ映画館の看板前で、オールヌードになる。

                   
ルポの一環で出た、にっかつ新人女優コンテストの水着審査でオールヌードになり、大きな話題となる。

週刊誌23誌、新聞7誌、テレビのワイドショーで一斉に、下半身にボカシを入れた私のヌードが報じられ、そのことが原因で月に20万は稼いでいた裸婦モデルの仕事を失い(行くと他のモデルが来ていて、主催者に「あれ?なんでまだ北九州にいるの?だってあなたテレビに出てたでしょう?」)途方に暮れる。他のギャラリーからも申し合わせたように締め出される。

 

 そんなさなか、劇作家で演出家・大阪狂気人の異名を持つ玉井敬友氏からスカウトされ、藁にもすがる思いでトランクひとつで上京。その日から六本木の劇団・シアタースキャンダルに住み込む。風呂なしで生活仕様の空間ではなかったため、ステージ上に小道具として使用されているふとんを敷き、ステージライトを仰ぎ見ながら眠るという、一種異様な生活が始まる。

 

 荒木経惟氏、赤塚不二夫氏と週刊大衆で対談。「FRYDAY」にブルース・オズボーン氏撮影の家族ヌードを発表。

グリコ森永事件


1985(23歳)  六本木シアタースキャンダル60日間舞踏公演。

「密戯」主演、「吟遊詩人アルチュール・ランボーを踊る」主演。

「11PM」等の深夜番組に出演。愛川欽也さん、大橋巨泉さん司会の曜日にも呼んでいただいたが、なかでも多かったのが藤本義一さん司会の大阪イレブンだった。 85年もっとも活躍した人として、藤本義一氏審査員の「大阪イレブン大賞」

に井筒和幸監督や、ゴジラとともにノミネートされ、審査員特別賞を受賞。また、キッチュさんとコンビでサブの司会をつとめたりと、東京より関西のテレビでお呼びが掛かることが多く、一週間に一度のペースで飛行機に乗っていた。

 

また、私が仕事の都合がつかず、東京での別番組に出演中、北九州の父親が、素人なのにピンで大阪イレブンに出演したことがあった。

豊田商事事件 日航ジャンボ機墜落 ウィ・アー・ザ・ワールド

 

 ロマンポルノからAVの時代になる。あるとき「おまえに会いたい言う有名な監督が喫茶店で待っとるから、行ってきて」と、玉井氏に言われる。「オレは忙しいから」と、単独で現地に行かされることを不審に思っていると、待ち合わせ場所に代々木忠監督が居り、出演の打診をされる。

 

 この一件で玉井氏との間に決定的な亀裂が生じ、その翌朝、黙って劇団を飛び出し、友達の家に潜伏する生活が始まる。たしかそのころ、もう劇団には寝泊まりしていなくて、川崎にアパートを借りていたが、見つかると思い友人宅を選んだと思う。

 

 私を探して、友人宅に玉井氏が現れたが、押入れに潜んだまま話を聞いていると「オレはあいつがほんとにイヤなことはやらせないよと言うとったと伝えてくれへんか」というようなことを話していた。

 

 事務所を辞めるということを条件に、川崎のアパートで友人立ち合いの下、玉井氏と会う。当然、口論がはじまり、つかみ合いの大げんかになり、玉井氏が持ってきた新聞をストーブの上に置いて言い争っているうち、火の手があがり、畳が一畳ぶん燃え、ボヤ騒ぎとなる。

 

 4月をもって、全ての活動を引退。初心にかえり、「少年チャンピオン」に漫画を連載開始。


 忙しくしている間に、ほとんど趣味的にやっていた父親の小鳥屋が店じまいを余儀なくされていたらしく、母からの手紙でそれを知る。借金を抱え、デパートもクビになり、借金取りから逃げるため隠れていることを知り、母親と、そしてひと月おくれで父親を東京に呼び寄せる。上野駅に降り立った父親は、コザクラインコの入った鳥かごを右手に、風呂敷包みの手提げ(愛用の米とぎ棒と九州の醤油、胃薬などが包まれていた)を左手に抱えて、駅のホームに立っていた。

 

 
 練馬のアパートで漫画を描き、父親がその原稿をドライヤーで乾かし、母親が飯の用意をしているところを大阪イレブンが取材。藤本義一さんはその様子を、「大昔の弥生人のように、家族が助け合って生計をたてている」と紹介した。


1986(24歳)   池袋文芸座ル・ピリエ公演。内田栄一監督、金子正次脚本「ちょうちん」。じゃぱゆきさん役で出演。 

 

 
岡田有希子自殺 三原山大噴火  おニャン子くらぶ チェルノブイリ原発事故


1986(24歳)~1994(32歳)

 

担当編集者に頼み込んで、少年チャンピオンのパーティーに、以前連載していた小林よしのり氏を呼んでもらい、高校生のときのまんがフェスティバル以来の対面が叶う。以降、何度かお会いするようになり、いつの間にか仕事場に入り浸るようになり、よしりん企画に正式入社する。

 

以後8年間、漫画家・小林よしのり氏のアシスタント として事務所の掃除、賄い、作画等を担当。
90年から正式な秘書となり、マネージメントや、「おぼっちゃまくん」、初期「ゴーマニズム宣言」のブレーンをつとめる。
ピャーポの愛称で漫画にも登場、読者に親しまれる。

 給料日になると、無職の父親がお金を取りに現れることが、事務所内で評判になる。

ノルウェイの森 一杯のかけそば  昭和天皇崩御 セクハラ ゲームボーイ バブル経済絶頂 ジュリアナ東京 バブル経済崩壊 

1994(32歳) 師匠はギャグ漫画を描く時間がなくなり、メインが大ヒットの「ゴーマニズム宣言」一本となった。

内容も、初期の頃とはうって変わり、社会への影響も巨大化していった。私はこれをバックボーンの面で支えきれなくなり、もっともふさわしい、政治に強い後任の秘書を探し、思いを託す。当時は、マンション前に張りこまれたり、盗撮されたりが毎日のように起こり、右翼左翼、オウム問題、噂の真相など、どこがなにを狙って来てるのかワケがわからない状況で、攻撃のホコ先として、私の過去にスポットが当たったり、それが新聞記事等に大きく取り上げられたりして、たいへん居づらく、夕食の買い出しに行っても、肉屋やそのへんのおばちゃんたちの対応が変わっていたり、また、マネージャーとして知り合った編集者たちにも、おおきな誤解や、困惑をあたえ、仕事がしにくかった。

 

かねてから、ここに長居をし過ぎたことを気にかけていたこともあり、これをひとりだちする時期と考え、まだ未熟ながら、ドタバタ騒ぎの中、反対を受けつつ独立。

 

 


とりあえずは、食うために新宿のスナックで働くことに。ところがマスターとそりが合わず、接客の仕方を、「ここは

キャバレーじゃない」と揶揄され、赤羽のキャバレー「ハリウッド」入店。

キムタク ポケベル ブレンド米 小室哲哉 茶髪 Dr・コパ ダイヤルQ2


1995(33歳) 昭和初期のにおいがするギラギラした外観のキャバレーがすっかり気に入って、働き続ける。

客層は高齢者が多く、カラオケで演歌のリクエストが相次ぐ。歌で指名をとるうちに評判になり、

衣装をつけてステージで歌うようになる。すると、バンマスの姿を借りた神様から ”あんた歌で食えるよ、仕事紹介してやろうか”と話を持ちかけられる。流れに逆らう理由もないので神様の言う通りにする。

バンマスに紹介されたヘルセンで歌っているうち人気が出て、音楽事務所のスカウトが来る。

松島アキラさん、藤圭子さんの前座歌手や、全国巡業がはじまり、ギャラとおひねりで暮らす生活がすっかり身につく。

阪神大震災 地下鉄サリン事件 狂牛病  O-157  ルーズソックス  アムラー  援助交際  携帯電話



1996(34歳)  巡業の途中でガラゴロちゃん(キャリーバッグ)を引きずり、知人、スズキコージ氏の個展会場に

ぶらっと寄ったら 編集者の姿を借りた神様に「文学賞に応募してみないか」と、いきなり声を掛けられる。

 

立ち上がったばかりの賞で、文章のうまい応募者も多いが、なにかひらめくものがあると。(のちに、この方は、声をかけた人に書かせると、高確率でその人は受賞し、作家になるという、いわゆる目利きの編集者だったことを知る)

ちょうど不況で世間の祝い事が激減し、歌の仕事が厳しくなってきたところだったので、わらにもすがる思いで決意。

その人は来年度の応募を勧めていたのだが、そこまで生きぬく自信がなかったので、あと半月後に〆切の迫る今

年度に応募すると返事。反対をよそに、鬼気迫る様相で書き上げ、編集者を驚かせる。

 

題材として、まさに今やっている歌の世界を描こうとも考えたが、ノンフィクションの文学賞という性質から、

赤羽のキャバレーを舞台にすることに決定。両親の応援を受けつつ、処女作を執筆。編集部での評判は「言葉の使い方が、ノンフィクションらしくないし、小説らしくもない」ということで、あまりかんばしくなかったが、師匠に見せて相談すると「面白い、これは間違いなく行く!」という返事だったので、期待する。

 

すると作品は第一次、第二次を突破し、ついに最終選考まで残る。そこで荒木経惟氏に最終選考に残ったという文芸誌の記事を見せると「はい獲った!!」と言い放った。読んでないけど、タイトルが獲る顔をしているということらしかった。

1996年12月 末永直海 「薔薇の鬼ごっこ」が、第三回蓮如賞優秀賞を受賞(選考委員*梅原猛先生、五木寛之先生、藤原新也先生、中沢新一先生)。
賞をとった、授賞式の前に父親が急死した事でぼう然となっており、喜べなかった。そして、もう自分に生きていく道がほかにあるとは思えなく、とにかく次の一手をどうするかで頭が一杯だった。

 

「作家をやると飢える」という周囲の猛反対を浴びながら、穴の開いた沈没船であるドサ廻りを先に全部引退。中沢新一先生から、そんな無謀なことをして大丈夫なのか、歌をやりながら書いたほうが良いのでは、と言われる。

たまごっち 地下鉄サリン事件 阪神淡路大震災 山一証券経営破綻   ダイアナ元妃事故死 携帯電話

 

 

 

 

ここより作家生活

1997年1月  「薔薇の鬼ごっこ」河出書房新社より上梓。新聞、雑誌、TV、ラジオ等マスコミで話題になる。ペンネームを考えていたのだが、出すタイミングが見つからないまま、本になってしまった。本名をさらしたまま、突き進む。

 

ペンネームについては師である小林よしのり氏に考えてもらおうとしたところ、「桃栗百兵衛」(ももぐり・ひゃくべえ)というとんでもない名前がついたこと(ハレンチ学園の十兵衛のイメージらしい)もあって、内心ほっとした部分もあった。

本名の末永直美を末永直海と海の字にした名づけ親は、やはり小林氏で、「おまえは落ち着きがないから、海の字を入れることで、海のようなスケールの広さと母性と落ち着きを持ったほうがいい」ということで、事務所にいるときからその名前で働いていた。奇しくもそれがペンネームとなった。

 


10月~(35歳)「書き下ろし長編小説「百円シンガー極楽天使」上梓。
「小説現代」に短編「ぱたぱた、ぽん」、「問題小説」に「くすぐったい魚」発表。


ポケットモンスター 神戸児童連続殺傷事件 出版不況の波


1998年(36歳)  「小説新潮」、「小説現代」、「小説宝石」等に短編を相次いで発表。
 「週刊女性セブン」に「煩悩配達人」(全5話)連載。

8月 ホームページ開設。                   
「週刊女性セブン」に「蝶」(全13話)を連載。


失楽園 キレる コギャル ガングロ 厚底 カリスマ美容師 ストーカー 和歌山毒物カレー事件


1999年 (37 歳)

 

1月  幻冬舎より共著「ホワイトラブ」刊行。 


7月  講談社より書き下ろし長編700枚「浮かれ桜」上梓。「薔薇の鬼ごっこ」河出書房新社より文庫化。
「小説宝石」に短編「うせものや」発表。12月小説「幻獣」執筆のためウサギを飼いはじめる。


五体不満足 パラパラ 少年法改正波紋 シドニーオリンピック開催 浜崎あゆみ R&B 宇多田ヒカル


 

2000年 ( 38 歳 )

 

3月 「週刊女性セブン」に「幻獣」(全5話)連載。      
6月~(38歳)「小学館より「煩悩配達人」上梓。初サイン会三省堂書店 神田本店で開催。 

                          
「文藝ポスト」に中篇「路傍の花嫁」、「小説宝石」に中篇「天使のけだもの」
「文藝」に実験的詩小説「カラフルイモムシ」発表。徳間書店より共著「密やかな匂い」刊行。


引きこもり ビジュアル系 IT革命 やだねったら、やだね  モー娘。 ユニクロ  出会い系サイト 


 

2001年 (39歳)

 

2月 「百円シンガー極楽天使」新潮社より文庫化。「ホワイトラブ」幻冬舎より文庫化。
4月~10月(39歳)「「小説宝石5月号」~10月号「合鍵の森」連載


10月  祥伝社より書き下ろし「蟲籠(むしかご)のブルース」上梓                              
11月 光文社より「合鍵の森」上梓。 

         
12月「合鍵の森」刊行記念トーク&サイン会、池袋ジュンク堂書店にて開催


小泉新内閣誕生 癒し系 米国同時多発テロ 狂牛病 ストリートミュージシャン

 

 

 

 

 

 

 

 

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